魔女の鍋

魔女の鍋の中身をお届け。

忘れてた2020年

前回、忘れてた2019年と言う記事を書いた。

その時「次は博士課程退学までのみちのり」を書くと予告した。

その件については、下記のノートにまとめた。

 

 

それはいいのだが、noteにまで手を出すと、どうにもこっちのブログとの住み分けが難しい。

noteの方はいずれシリーズ化するものだけにしようかなと思う。

と言うわけでこっちはバラバラアップすることにしやす

 

忘れてた2019年

正直、このブログのことなどすっかり忘れていた。

存在は覚えていたが、忘却の彼方にあった。

 

2020/01/17の本日、突然思い出してブログを書いている。

そもそも、このブログで何がやりたかったのかもイマイチ思い出せない。

多分映画とかスパイスとか何かそういったことをやりたかったのだろう。知らんけど。

 

ところで、私のインターネッツでの主な活動場所はtwitterである。twitterでは様々なくだらないことを発言し続けているのだが、時折、140文字では足りなくて、ツリーにするには物足りなくて、そういう気持ちになった時にこのブログを登場させようと思う。

誰かに見てもらうことで趣味はより深くなるような気がするのだ。人生も然り。

というわけで、次の記事(の予定)では、博士課程進学から退学までの道のりを書くとしよう。

このブログの運用方法について試行錯誤中

別に、ブログのことを忘れていたわけではない。

およそ120日前から腹痛やら何やらで色々やる気がおきなかっただけだ。

体調については、ずっと吐き気と下腹の腹痛が止まらず、大学病院で受診中である。

なお、胃痛と嘔吐についてはおおよそ治療が完了している。

 

ところで、タイトル通り、このブログの運用について非常に悩んでいる。

実は、このブログ以外にもう一つ、私の本名でやっている非常に真面目なブログ(予定)があるのだが、そことの住み分けがイマイチ明確ではない。

 

すなわち、魔女の本業である大学院の専門関連のことを真面目ブログで、それ以外の物をこちらで、と言う予定だったのだが、ツイッターのこちらの魔女のアカウントで好き放題プライベートを垂れ流し、ついには専門まで垂れ流し始めたので、最近うまく線引きできていないのだ。

特に、読書記録である。

敬愛する球菌女史を見習って10さつくらいごとで読書記録を書こうと思っているのだが、いかんせん、魔女アカウントでちょっと専門にかかるものを読んでると言ったものだから、何だかややこしくなってしまった。

このブログの運用方法はしばらく考えるので、また2〜3月あたりに再開したいと思う

魔女のノート:万城目学氏講演会「職業としての小説家」を聴講して。

先日鴨川大学で行われた、万城目学氏講演会「職業としての小説家」を聴講してきた。

万城目学氏は鴨川大学法学部の卒業生で、今回は鴨川大学法学部同窓会組織有信会が主催する講演会であった。この講演会は大々的には全く告知されず、本学掲示板は有信会内のみの発信であったそうだ。ちなみに魔女は前日に会場の掲示で知った(写真)のだが、ほぼノー宣伝にも関わらず法経第一教室という大教室が超満員。入ってくる聴講者たちが、一様に満席の会場をみて、口を揃えて「うわ、すご」というくらいの人出だった。

 

さて、まず、万城目学氏について簡単にご紹介。もちろんwikiから。

万城目学 - Wikipedia

大阪府出身、東京都在住。京都大学法学部卒[1]。『鴨川ホルモー』『プリンセス・トヨトミ』などの、実在の事物や日常の中に奇想天外な非日常性を持ち込むファンタジー小説で知られ、作風は「万城目ワールド」と呼ばれる

 

つまり、結構ファンタジーな小説家の方である。

ちなみに私はいずれも読んだことがないが映像作品として知っている。ちなみに奈良県民の魔女様『鹿男あをによし』が大好きだ。

 

で、講演会だが、60分の講演、30分の質疑という構成。

法学部教授に連れられて(まさに連れられてというかんじで)万城目学氏が入場し、万城目学氏のファンであるという教授の挨拶もそこそこに、教壇にたつ、、、というか教壇のパイプ椅子に座り、大きな教壇からヌッと顔をだし、氏の講演が始まった。

 

はじめに申し上げるが、氏もテヘペロするくらい「職業としての小説家」という講演タイトルについて合致した内容はおよそ5分ほどしかお話されていない。そして、肝心な話題とおもわしきところまで40分ほど導入のお話をされた。

内容があまりにあまりなのでここは省略したい。

 

さて、講演によると、氏が小説を書き始めたのは学部3回生のころだそう。

1−2回生のサークル活動を頑張る時期が過ぎ去り、4回生からは就活が始まる。そんな慌ただしい大学生活で唯一ぽっかり穴のあく3回生のころ。

そのころに、正門から東一条通りをチャリで帰るときに見上げた空の「透明さ」が氏の心に強く張り付いた。

その透明さを表現するために、氏は小説を書き始めた。

 

そして、氏はその3回生の1年で1本長編小説をかいたそうだ。

それを当時付き合っていた彼女、本をたくさん読んでいた女性、男性の親友、その3名に見せたところ「きもい」と言われたそうだ。

そう、彼が書いたのはファンタジー小説ではなく、純文学や私小説というジャンルのものだったそうだ。

 

その後、余暇で小説を書こうと決心した氏は就活で「楽そうな」会社を選ぶ。某工場の総務部で経理の仕事をするも、遅筆の彼はなかなか小説が進まないし、仕事終わりの小説の執筆は肉体的にも脳みそ的にもかなりしんどかったようで、彼は200万の貯金を元手を持って退職する。退職して、小説を書き始める。

そして2年、純文学や私小説を書き続けたが、残り貯金が15万円をきったところで、なんか書いたら、当たったのが「鴨川ホルモー」である。

鴨川ホルモーの成功で氏が悟ったのが「自分を入れない」ことだそうだ。今まで、例えば、自分の「孤独」を入れようとする。でもそうすると、面白くないらしい。

自分のことでなくて、例えば学生の頃出会った吉田寮の変な奴をモデルにしたり、そういう他者を語る方が面白いらしいのだ。

氏がおっしゃるには、「自分のことを書かなくなったらプロになれるし、それにはだいたい7年かかる」とのことだ。

だいたい7年かかって、自分という殻を破って自分ではないという小説がかけるのだそうだ。

まぁ、だいたいこんなところですかね。本公演は。

質疑についてはより「職業としての小説家」っぽい質問が溢れることになる。

質疑の内容はこれを書いている段階でもう1週間以上立ってるのでだいぶんうろ覚えでございます。

まぁ例えば、メディアミックスによる成功や、お金のこと(印税収入や原稿料について)、あと、そのお金の話を踏まえて、職業作家としての筆の速さが兼業か専業を決めるということでしたね。おおよそには。

 

実際、本講演より私は質疑応答の方がおもしろかったのですけど。とりあえず、もう書くのが面倒になって来たので今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

魔女のノート:負の数×負の数が正の数になる問題

いきなり何を言い出すのかとお思いだろう。

魔女は時折家庭教師をやっている。

 

家庭教師をするにあたって、というか、自分が中学から色々やり直したくて、家庭教師という責任ある仕事をすれば復習せずにはいられないのだから始めた。

しかし、私は数学が大の苦手である。

高校の時は、模試で数学大阪府最下位を記録したこともある。

 

もはや何につまづいて、どこからダメになったのか、今となっては全然わからない。

しかし、「人は辛い経験のぶんだけ人に優しくなれる」らしいので、「バカなぶんだけわからないことが多かったので、教えるのうまくいく」はずなのである。乗り越えていれば。

 

13才の私は乗り越えられず座礁し続けたが、年齢という浮き輪を与えられ、今はいろんな手段でそれらを補完できることを知ったのだ。

そこでとりあえず、スタディサプリという月額有料の講義アプリと、下記の本を買った。

 

中学校3年分の数学が教えられるほどよくわかる

中学校3年分の数学が教えられるほどよくわかる

 

 

この本、大変によかった。

そして、私がおそらく中学の時に初めてつまづいた箇所が下記である

つまり、負の数×負の数=正の数になることを「覚えよ」と言われたことに非常に納得がいかなかったのである。

当時、というか今も数学は「説明ができ、それが数字という全世界共通の言語で理解されるもっとも論理的な学問である」と考えていたからである。

もっと、中学生当時の私の言い方に言い換えると「説明できる学問なのに覚えろとか意味がわからない」である。

 

とりあえず、覚えた。納得の行かないまま。

ということをツイートしたならば、アカデミア在住の素晴らしいビックブレインのみなさまから続々と素晴らしい回答を得ることができた。

せっかくなので、下記に紹介させていただきたく、今回は筆をとった次第である。

 

 

 

 

 

twitter.com

また、@sakiyamaK氏にDMで下記のように説明していただいた。

”数学史的な流れですが、マイナスの概念が発見された時に、四則演算のルールを拡張する必要が出てきたわけです。 マイナス発見以前からプラス*プラス=プラスだったので、プラス*マイナス=マイナスというふうに*マイナスだと「符号が反転する」ってのが自然じゃね?と掛け算を拡張することに決めたわけです。 そうするとマイナス*マイナスは「*マイナスは符号が反転する」っていうふうに拡張したのだからプラスになる。 という流れです。 マイナス*マイナスだけをみるとプラスになるのがイマイチ癪に障りますが、「*マイナスは符号が反転する」というのが大前提です”

 

というわけで、数学的証明については、みなさまの叡智を堪能していただくとして、本では下記のように説明される。(一部、私が簡略化し、記述する)

まず簡単には「−100円増えた」という表現について学習する。「−100円増えた」ということは「100円減った」という表現と同義である。

次に、距離と方角でこの問題を言及するのだが、ある地点Aから南へ時速5kmに進む。これを時速+5Kmとする。一方で北へ時速5kmで進むことを−5kmとする。

そして、「南から北に向かってあるく時、3時間前」はどこにいるのかという場合、3時間前には、、、

「北に向かって時速5kmで歩く」は「南に時速−5kmで歩く」であり、「3時間前」は「−3時間後」と表現できるわけである。、、、

あとは計算すれば15kmという答えが出てくることはわかるだろう。つまり、A地点から15キロ地点にいるということである。

 

という説明が図を用いて非常にわかりやすく説明されている。

流石に全転載はまずいので、ものすごく端折って説明したが、これ以上は本を参照されたし。

 

と、いうわけで、私がただただ覚えてしまった公式は割と簡単に理解できる内容だったのだ。

これからもこのような発見があればブログなどで紹介していこうと思う。

 

おしまい

魔女と映画:プーと大人になった僕*ネタバレ有

先日、プーと大人になった僕(字幕版)を見てきた。

魔女はプーさんの原作をよく知らないし、この映画が発表された時に「これは見に行かんやろ」と正直思った。

 

しかし、ツイッターで下記の画像を見て気が変わった。

f:id:witchscaldrons:20180925223904j:plain

プーが大人になり、ワーカーホリックになったクリストファー・ロビンに退職届を持って(いるかのように)迫ってくるというものだ。

なお、同じくツイッターで多くRTされていた「ワーカーホリックなクリストファー・ロビンの帰宅時間は21時」という言説も同じくこの映画の見たさを駆り立てた。

これ以上はネタバレを含む感想になるので後述する。

 

ところで、くまのプーさんとはどういう話なのか。

クマのプーさんは児童小説であり原題を”Winnie-the-Pooh”という。作者が息子のクリストファー・ロビンのために、彼の持っていたベアをヒントに、「100エーカーの森」での彼とプーとその周辺との楽しい日々を紡いたものである。

このクマのプーとの行楽日記はいわばクリストファー・ロビンの脳内で繰り広げられていることが原作最終巻で示唆される。クリストファー・ロビンが、寄宿学校に行くためにもう彼らの100エーカーの森には来られなくなる、、、というのが結末というか、「おしまい」である。

ちなみに、イギリスが舞台である。詳しいことはウィキペディアや原作小説を参照して欲しい。

 

以下はネタバレを含むので、これから見ようとしている方や知りたくない方は注意されたし。

 

さて、映画構成は適度に起承転結スタイルである。

 

 

以下は簡単なネタバレです。

クリストファー・ロビンが100エーカーの森を離れて以降の辛く苦しい日々(寄宿学校への入学・幼少期での父親との死別・戦争と負傷、そのほか結婚)

 

クリストファー・ロビン、資本主義の狗となり効率化を重視し、嫌がる娘を寄宿学校に入れたり、職場で部長?なのか、リストラをしたりまさに時のイギリス労働者。家族はまさに破綻寸前、なんなら、会社も首の可能性有りの有り。

 

・一方、100エーカーの森でも異変が。プーさんの愉快な仲間たちが霧の中に消えてしまった。プーさんは考えた末、クリストファー・ロビンの100エーカーの森への通路(すなわち家)をいく。そして、プーさんがたどり着いたのはクリストファー・ロビンの家のまえの公園

 

クリストファー・ロビンとプーの再開、すっかり資本主義にやさぐれたクリストファー・ロビン、リトルブレイン・プーの言動にイラつきを隠せない。大事なリストラ会議の前の準備をしながら、100エーカーの森までなんとかプーを送るものの、大好きだったプーに「もう友達じゃないかもな」なんて言ってしまう。

 

・すったもんだあって、プーとはぐれ、プーの愉快な仲間たちと再開、プーと違って成長したクリストファー・ロビンのことを愉快な仲間たちは彼と認識できない。童心にかえって色々やっちまったロビンはついに、「クリストファー・ロビン」であることを愉快な仲間たちに認識される

 

・なんだかんだあって、プーとも仲直り、家族とはまだ険悪。そんな時、イーヨーたちはクリストファーロビンの大事なコスト減、効率化リストラ一覧書類をロビンに返すのを忘れていたことに気がつき、こっちの世界にやってくる

 

・ロビンの娘、プーと愉快な仲間たちが合流、プーは書類を返し忘れた失態をなんとかしたいし、ロビンの娘は娘で「これをパパンに持っていったら喜ばれて行きたくもない寄宿学校に行かなくてよくなるかもしれない」という思惑をもつ

 

・プーと愉快な仲間たちwith娘は一路田舎からロンドンへ向かう。母、気づいて追いかけるもすれ違いの上にすれ違いを重ね、見つからない。

 

・ロビンの会議が始まる。自分には家族崩壊のきっかけを招いた休暇返上を指示した上司がゴルフ遊びをしていたことを知り、もやもやしながら会議に出るも、上司が「俺たち(というより俺)が考えたプランを発表させてやる」という趣旨の発言にモヤりまくるが、書類がないことに気がつく。

 

・そんな時、妻が急ぎの用事ということで、会議をすっぽかして(もはやこの時リトルブレイン・プーの思考回路になってきている)家族のもとへ。二人で娘を探すことに。

 

・ちょっとコメディタッチな流れが有り、とにかく妻もプーたちのことを認識、資本主義の狗氏、「何もしないをする」に着想をえて、効率化よりも良い案を会社に提案、その頃上司は遊んでいたのがバレてシャッチョウさんに怒られる。

 

・最終的に、家族みんなで100エーカーの森でプーと愉快な仲間たちがお茶会(オフ会?)して終わり。

 

 

さて、お気づきかもしれないが、もともとプーはクマはクマだがテディ・ベアである。はちみつ大好きプーさんのはちみつ捕食シーンが非常に汚い。

顔を突っ込んで食べるか手に乗せてベロベロやるわけだが、実写版だとふわふわの布にはちみつがつく様は主婦の阿鼻叫喚を呼ぶしかない。

正直、私も早くこのクマを洗面所に持っていて濡れたタオルでガシガシ拭って洗濯洗剤を多めにぶっかけてザブザブやりたくてしょうがなくてウズウズした。

 

ま、そんなことはさておくとして、この映画では「何もしないをする」が重要なテーマになっている。

何もしないをするは最高の何かを生み出すらしい。

何もしないをするというのは、簡単にいうと休暇である。

それはロビンの効率化案の素晴らしい代替案(解決策)として登場するのだが、それだけではなく、何もしないということは凝り固まった思考回路や他人を思いやる気持ちや、他人に対して目を向けることのできる余裕を産んでくれる、というメッセージが強く発せられているように思えた。

 

一方で、上司からは「無からは何も生まれない」という趣旨(うろ覚え)のことを常々聞かされるロビン。

働かなければ、生活できない。

娘も、有名寄宿学校に行けばいい就職先がある。寂しいとかそういう問題ではなないだろうと思うロビン。

かの時代にイギリスに押し寄せた資本論が非常に濃く出る物語である。

そこからの脱却や、無邪気な幼少期へ無垢に無情に誘うプーはまさに退職届けを持って迫ってくるどう猛なクマそのものに見えなくもない。恐ろしい子

 

一方で、この物語は「仕事などしなくていい」とは決して言わないし、「バカでいい」とも絶対に言わない。

仕事はしないといけないし、勉強もしないといけない。さもなければ社会的な成功は有りえないという超現実を突きつけてくる。

ものすごく簡略化すると「やることをやってしっかり休む、社会福祉的な制度や取り組みは大事」そうすれば消費は促進されるし、リフレッシュできるしいいよね、みたいな話なのだ。

 

あのはちみつ塗れのクマは決して働くなとも言わないし、退職届を持ってきたりもしない。けれども、ずっとクリストファー・ロビンの友達であろうとする。

それは、やはり働くとは対極にあるのだ。そういうことである。

 

要は、鬱になる前に適度な休息を挟み、家族や恋人や友人を大事にしましょう、という話である。

それもあなたにとって大事な人、に限られる。

ロビンはお隣さんからのカードゲーム?の誘いは断り続けているし。

 

と、まぁそういう映画に思えた。

最後に、プーの声があまりにおっさんで結構イラっとした。

 

そういえば、「プーの哲学」なる本があると教えられたので早速アマゾンでポチった。また読んだらレビューする予定である。

 

おしまい

 

 

魔女と映画:「カメラをとめるな!」※ネタバレ大あり

先日、松葉杖をカンカンついて大阪はTOHOシネマズ梅田で「カメラをとめるな!」という映画を見てきた。

めちゃくちゃ久しぶりのTOHOシネマズ梅田、地方のスクリーンとは異なるビックなスクリーン。

ちなみに、カメラをとめるな!は大人気で、当日4回目の上映を朝7時に予約した時点ではもうほぼ満席で、端っこの方の席しかなかったくらいだった。

超満員御礼。

 

さて、以下、本記事はネタバレをふんだんに含むのでお気をつけくださいませ。

 

下記めっちゃネタバレ

まず、映画の構成は「劇中劇(A)」→「劇中劇に到るまでの経緯とキャストのキャラクター紹介(B)」→「最初の劇中劇の舞台裏とともにお届け(C)」である。

 

(A)パート、冒頭の劇中劇は「ゾンビものの映画を撮っていたキャストとスタッフたちが、本物のゾンビパニックにあう」という内容で、それこそ観客がいっぺん死んでしまうほどチープな作りでチープな内容である。え、これいつ終わるの?ていうかシャク持ちますか?っていう感じ。観客は一度ここであまりのB級映画感にしっぺん死ぬ。

 

劇中劇はエンドロールを迎え、(B)パートに。

なんやかんやあって、うだつの上がらない監督は鳴り物入りのゾンビもののノーカット番組を担当することになる。

キャストは監督の娘が大好きなイケメン、ヒロインは謎の軽いテンションのアイドル、そして一癖も二癖もある脇役たち。

劇中劇を作るまでにてんやわんやトラブル続きなのである。力のない監督は個性豊かな俳優陣に散々振り回され、ヘロヘロになりながらなんとか劇中劇当日を迎えるのだった。

 

そして、(C)パート。いよいよ劇中劇の撮影が始まる。

劇中劇では(一応)シリアスな劇中劇の裏側をさらに裏側から撮影するものであり、(B)パートの個性豊かなキャラクターたちがハプニングに継ぐハプニングによって伏線を回収しながら、めっちゃコメディに展開して行く。色々あって、監督も劇中劇に参戦、振り回されまくった監督(とその家族)はこれでもかというほどに、俳優陣たちを使いまくってはちゃめちゃな劇中劇が続くのである。

果たして、劇中劇は演者の機転につぐ機転によってなんとかそれっぽく仕上がる、ハッピーエンドを迎える。

 

感想

インディーズといって差し支えないプロジェクトで映画が作成され、たった2館の上映からその人気で全国に展開していった作品である。

その人気の通りの面白さだった。映画館では、コメディなB・Cパートでたくさんの笑い声が響く。シリアス(一応)なAパートの冗長さ(実際に長い)に飽きた頃合いに、クレイジーな監督は実は腰の低い、うだつの上がらない様子のギャップ、そしてCパートで再びクレイジーになるギャップの高低差で楽しませてくれる。

要はこの映画はめっちゃコメディである。一見冗長というか長すぎるだろ、これどうやって終わるのかと思えるAパートはまさにインディーズ映画にのみ許された特権であるだろう、と思われる。そして随所随所に現れる小物や色々がすごくチープなのだ。本作は300万円という破格の予算で作成されたそうだが(どこをどうして300万で作ったのかは不明)、そのチープさが帰ってテーマというか内容を引き立てているのである。

また、本作の俳優陣は全員無名の俳優であるが、全員の見た目とキャラが素晴らしく一致しており、またそれだけ実力をうかがわせるわけだが、やはりどこかインディーズ感が抜けないのである。同じく映画を引き立たせる素晴らしい要素である。

 

逆に、上田監督が予算を大枚にはたいて作品を作ることができるのであればいったいどんな作品を作ることができるか、非常に興味深い。チープさ、インディーズさを全面に出した本作を足がかかりに次に上田監督がつくるのはどんな作品であるのか、ぜひ見てみたいと思う。

 

終わり。