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魔女と映画:プーと大人になった僕*ネタバレ有

先日、プーと大人になった僕(字幕版)を見てきた。

魔女はプーさんの原作をよく知らないし、この映画が発表された時に「これは見に行かんやろ」と正直思った。

 

しかし、ツイッターで下記の画像を見て気が変わった。

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プーが大人になり、ワーカーホリックになったクリストファー・ロビンに退職届を持って(いるかのように)迫ってくるというものだ。

なお、同じくツイッターで多くRTされていた「ワーカーホリックなクリストファー・ロビンの帰宅時間は21時」という言説も同じくこの映画の見たさを駆り立てた。

これ以上はネタバレを含む感想になるので後述する。

 

ところで、くまのプーさんとはどういう話なのか。

クマのプーさんは児童小説であり原題を”Winnie-the-Pooh”という。作者が息子のクリストファー・ロビンのために、彼の持っていたベアをヒントに、「100エーカーの森」での彼とプーとその周辺との楽しい日々を紡いたものである。

このクマのプーとの行楽日記はいわばクリストファー・ロビンの脳内で繰り広げられていることが原作最終巻で示唆される。クリストファー・ロビンが、寄宿学校に行くためにもう彼らの100エーカーの森には来られなくなる、、、というのが結末というか、「おしまい」である。

ちなみに、イギリスが舞台である。詳しいことはウィキペディアや原作小説を参照して欲しい。

 

以下はネタバレを含むので、これから見ようとしている方や知りたくない方は注意されたし。

 

さて、映画構成は適度に起承転結スタイルである。

 

 

以下は簡単なネタバレです。

クリストファー・ロビンが100エーカーの森を離れて以降の辛く苦しい日々(寄宿学校への入学・幼少期での父親との死別・戦争と負傷、そのほか結婚)

 

クリストファー・ロビン、資本主義の狗となり効率化を重視し、嫌がる娘を寄宿学校に入れたり、職場で部長?なのか、リストラをしたりまさに時のイギリス労働者。家族はまさに破綻寸前、なんなら、会社も首の可能性有りの有り。

 

・一方、100エーカーの森でも異変が。プーさんの愉快な仲間たちが霧の中に消えてしまった。プーさんは考えた末、クリストファー・ロビンの100エーカーの森への通路(すなわち家)をいく。そして、プーさんがたどり着いたのはクリストファー・ロビンの家のまえの公園

 

クリストファー・ロビンとプーの再開、すっかり資本主義にやさぐれたクリストファー・ロビン、リトルブレイン・プーの言動にイラつきを隠せない。大事なリストラ会議の前の準備をしながら、100エーカーの森までなんとかプーを送るものの、大好きだったプーに「もう友達じゃないかもな」なんて言ってしまう。

 

・すったもんだあって、プーとはぐれ、プーの愉快な仲間たちと再開、プーと違って成長したクリストファー・ロビンのことを愉快な仲間たちは彼と認識できない。童心にかえって色々やっちまったロビンはついに、「クリストファー・ロビン」であることを愉快な仲間たちに認識される

 

・なんだかんだあって、プーとも仲直り、家族とはまだ険悪。そんな時、イーヨーたちはクリストファーロビンの大事なコスト減、効率化リストラ一覧書類をロビンに返すのを忘れていたことに気がつき、こっちの世界にやってくる

 

・ロビンの娘、プーと愉快な仲間たちが合流、プーは書類を返し忘れた失態をなんとかしたいし、ロビンの娘は娘で「これをパパンに持っていったら喜ばれて行きたくもない寄宿学校に行かなくてよくなるかもしれない」という思惑をもつ

 

・プーと愉快な仲間たちwith娘は一路田舎からロンドンへ向かう。母、気づいて追いかけるもすれ違いの上にすれ違いを重ね、見つからない。

 

・ロビンの会議が始まる。自分には家族崩壊のきっかけを招いた休暇返上を指示した上司がゴルフ遊びをしていたことを知り、もやもやしながら会議に出るも、上司が「俺たち(というより俺)が考えたプランを発表させてやる」という趣旨の発言にモヤりまくるが、書類がないことに気がつく。

 

・そんな時、妻が急ぎの用事ということで、会議をすっぽかして(もはやこの時リトルブレイン・プーの思考回路になってきている)家族のもとへ。二人で娘を探すことに。

 

・ちょっとコメディタッチな流れが有り、とにかく妻もプーたちのことを認識、資本主義の狗氏、「何もしないをする」に着想をえて、効率化よりも良い案を会社に提案、その頃上司は遊んでいたのがバレてシャッチョウさんに怒られる。

 

・最終的に、家族みんなで100エーカーの森でプーと愉快な仲間たちがお茶会(オフ会?)して終わり。

 

 

さて、お気づきかもしれないが、もともとプーはクマはクマだがテディ・ベアである。はちみつ大好きプーさんのはちみつ捕食シーンが非常に汚い。

顔を突っ込んで食べるか手に乗せてベロベロやるわけだが、実写版だとふわふわの布にはちみつがつく様は主婦の阿鼻叫喚を呼ぶしかない。

正直、私も早くこのクマを洗面所に持っていて濡れたタオルでガシガシ拭って洗濯洗剤を多めにぶっかけてザブザブやりたくてしょうがなくてウズウズした。

 

ま、そんなことはさておくとして、この映画では「何もしないをする」が重要なテーマになっている。

何もしないをするは最高の何かを生み出すらしい。

何もしないをするというのは、簡単にいうと休暇である。

それはロビンの効率化案の素晴らしい代替案(解決策)として登場するのだが、それだけではなく、何もしないということは凝り固まった思考回路や他人を思いやる気持ちや、他人に対して目を向けることのできる余裕を産んでくれる、というメッセージが強く発せられているように思えた。

 

一方で、上司からは「無からは何も生まれない」という趣旨(うろ覚え)のことを常々聞かされるロビン。

働かなければ、生活できない。

娘も、有名寄宿学校に行けばいい就職先がある。寂しいとかそういう問題ではなないだろうと思うロビン。

かの時代にイギリスに押し寄せた資本論が非常に濃く出る物語である。

そこからの脱却や、無邪気な幼少期へ無垢に無情に誘うプーはまさに退職届けを持って迫ってくるどう猛なクマそのものに見えなくもない。恐ろしい子

 

一方で、この物語は「仕事などしなくていい」とは決して言わないし、「バカでいい」とも絶対に言わない。

仕事はしないといけないし、勉強もしないといけない。さもなければ社会的な成功は有りえないという超現実を突きつけてくる。

ものすごく簡略化すると「やることをやってしっかり休む、社会福祉的な制度や取り組みは大事」そうすれば消費は促進されるし、リフレッシュできるしいいよね、みたいな話なのだ。

 

あのはちみつ塗れのクマは決して働くなとも言わないし、退職届を持ってきたりもしない。けれども、ずっとクリストファー・ロビンの友達であろうとする。

それは、やはり働くとは対極にあるのだ。そういうことである。

 

要は、鬱になる前に適度な休息を挟み、家族や恋人や友人を大事にしましょう、という話である。

それもあなたにとって大事な人、に限られる。

ロビンはお隣さんからのカードゲーム?の誘いは断り続けているし。

 

と、まぁそういう映画に思えた。

最後に、プーの声があまりにおっさんで結構イラっとした。

 

そういえば、「プーの哲学」なる本があると教えられたので早速アマゾンでポチった。また読んだらレビューする予定である。

 

おしまい